僕は、霞ヶ浦のほとりにある里山の、地主の家に生まれました。その頃は日本国中に、田んぼと小川と雑木林と集落の4点セットがある里山があって、地主というのはその里山を管理して世話をするのが仕事だったわけ。
カッコウが鳴いたら野菜の植え付けをやろうとか、大雨が降ったら決壊しないように水を逃がす遊水池をつくったり、田植えも草刈りも雑木林の木を伐って薪や炭にすることも、とにかく全部やる。50人や100人の宴会が出来るような座敷には、兵隊さんやお巡りさんが下宿していたり、居候もいれば名のある絵描きや学者が旅の途中で泊まっていたり。そういう人達を迎え入れてお世話するのも地主の役目。野良仕事の親方であると同時に、里山の世話人、プロデューサーでもありました。
だから、物心ついた時には、植物や動物の名前はもちろん、季節の移ろいや「どこをどうやって草刈りしたらいいか」みたいなことまで詰め込み教育されていました。それに、なんかグジグジしている事があると、おじいちゃんやおやじに「野良仕事をしなさい!いくらでもやることあるんだから」と叱られた。野良仕事って、野が良くなる仕事という意味なんだよね。
高校卒業後、船長になりたくて東京商船大学に入ったんだけど、視力が悪くてあきらめて、その後、家の反対を押し切って俳優になりました。で、ある時期から猛烈に売れ出して、年間600本ぐらいテレビの仕事があったりして、僕自身も夫婦も家族もバランス崩れて収拾がつかなくなったのね。もう壊れちゃう、危ないと感じたとき「そうだ!野良仕事をしよう」と思い立ったわけです。今から30数年前、ちょうど40歳の頃かな。
で、どうしたかと言うと、僕が13歳の夏休みに一人旅をして大変影響を受けた土地「八ヶ岳南麓」に、雑木林をつくって家族で住むことにしました。
ものすごく荒れ果てた拡大造林の、風も光も入らず、花も咲かず鳥も鳴かないような、僕は「沈黙の森」って言うんだけど、そういう人工林を少しずつ買い取って自分の手で伐っては落葉広葉樹を植えた。伐れば、本来あった広葉樹も生えてくるから、それを保育する。新しい木を何千本も植えて、もともと生えていた木と折り合いをつけながらつくっていく……。10年経ち、20年経って、ある種のクライマックスを迎えた森を想像しながら、じゃあ今はどう間伐して枝打ちをすればいいか、という風にね。
そうやってひたすら野良仕事をしているうちに、森が息を吹き返してきた。ところが今度は、僕たちの森を見学する人が多すぎて、野良仕事どころじゃなくなっちゃったの。それで、ちょうど20年前に、森の一部を、誰が訪れてもいいパブリックスペース「八ヶ岳倶楽部」として公開しました。
僕はこの森をつくるときに、もともとある木との折り合いをつけながら手を入れてきたわけだけど、日本人はついこの間までそうやって暮らして来たんだよね、2000年もの長きにわたり。木や水や石やいろんなものに畏敬の念を持ちながら、自然を滅ぼさないように里山や奥山まで手を入れて。
そうやって品よく折り合いをつければ、森には花が咲き、鳥が歌うわけですよ。鳥がいっぱい歌っていれば、それはつまり食べる実があり虫もいるということでしょ。生き物たちで満ちあふれている自然。そのシンボルが鳥なんです。
たとえば夏なら、キビタキとかオオルリなんかがいて、秋になると遠い南の国へ帰っていく。で、稲刈りが終わる頃になると、今度はコハクチョウなどの冬鳥たちが4000キロも飛んでくる。そういう時に、鳥が見て気に入ってくれるような、かつての里山の風景を取り戻さないといけないと思う。鳥たちのためにも、僕たちの子孫のためにも……。確かな未来は懐かしい風景の中にあるからね。
僕はね、人間が今いちばん知的能力を発揮すべきなのは、生き物を知ること、感じることだと思う。八ヶ岳倶楽部もそうだけど、遠くの森へわざわざ来る人は、知的好奇心がある人達ですよね。だって、この森を歩くと、都会に居て1年で体験するぐらいの情報が集まってくるんだから。ここに生えている木の名前、花の名前、鳥の鳴き声、全部覚えていったらすごいでしょう。そういうのを教養と言うんです。
だから、世のおとうさん達に言いたい。子ども達を連れて野山へ行って釣りでもするとか、田舎があればそこへ行って野良仕事の手伝いをするとか。そうやって子ども達に自然との折り合いのつけ方、本物の教養を身につけさせて欲しいんだな。野良仕事をやると大人も癒されるし。これ以上の薬はないぐらいにね。
森は癒しのホスピタルであり、偉大なる教養のかたまり。里山もしかり。だからね、割と大ざっぱな気持ちで、とにかく来ちゃうといいですよ。
柳生 博
俳優
1937年(昭和12年)茨城県阿見町生まれ。
茨城県立土浦第一高等学校卒業後、東京商船大学(後の東京海洋大学)に入学するも、視力の低下により中退し船長への夢を断念。役者を志して劇団俳優座の養成所へ入り、現在に至る。俳優や司会として活躍する傍ら、山梨県八ヶ岳南麓に住処を求め、周囲の荒れた人工林を、本来の姿に近い雑木林に復元する。30年余りをかけて育て上げられた雑木林は、現在、多くの人が訪れるパブリックスペースとして公開され、アトリエとカフェを併設する「八ヶ岳倶楽部」を家族で営んでいる。財団法人日本野鳥の会会長、コウノトリファンクラブ会長を務める。
2022年4月14日、八ヶ岳の森に見守られ、多くの人に惜しまれつつ永眠(享年85歳)。
柳生博さんが会長を務める財団法人日本野鳥の会は、75年もの歴史と5万人を超える会員とサポーターを抱える自然保護団体です。
「自然にあるがままの野鳥に接して楽しむ機会を設け、また野鳥に関する科学的な知識及びその適正な保護思想を普及することにより、国民の間に自然尊重の精神を培い、もって人間性豊かな社会の発展に資すること」を目的として、1934年(昭和9年)3月に産声をあげました。
創設当時は、鳥といえば飼ったり捕って食べることが一般的だった時代。そんな中で、「野の鳥は野に」との思想を掲げ、「鳥の科学と芸術との交流」を目指した画期的な活動としてスタートしました。発会式や探鳥会には、北原白秋、柳田國夫、金田一春彦、山階鳥類研究所の山階芳麿をはじめ、そうそうたる文化人や鳥学者が集まり、鳥と文化を語り合ったといいます。
戦後になって、文化人の高尚な趣味の会から、鳥類の研究・保護を行う団体へと進化。1970年に財団法人となって以降は、当時激しさを増した公害問題を背景に、自然保護運動のリーダー格として全国各地で活躍しました。ワシントン条約シンポジウムの主催など、海外の自然保護団体との交流も活発に行うようになりました。
現在の日本野鳥の会の活動は、大きく分けて3つあります。全国の干潟や里山など野鳥の生息地の保全、野鳥保護区の設置、絶滅危惧種の保護などを行う「自然保護」。エコツアーガイドやレンジャーの育成、バードウォッチングの楽しみ方から持続可能な地球環境まで指導する講師の派遣、子ども向けワークブックから映画まで制作する「普及教育」。そして、北海道ウトナイ湖を皮切りに、福島、東京、三宅島など全国12カ所に展開する人と自然の出会いの場「サンクチュアリ」。
2009年春にスタートした、北海道根室市の野鳥保護区で原生的自然環境を復元し生物多様性と植樹による森林炭素吸収、カーボンオフセットを実現する「シマフクロウの森を育てよう!」プロジェクトも注目される活動の一つです。また、人間がつくった国境をたやすく飛び越える渡り鳥を保護する目的で、アジアの国々との国際協力プログラムも幅広く展開しています。
バードウォッチングをするのが野鳥の会、ではないのですね。野鳥をはじめとする全ての生きものたちが、今日も明日も100年後も元気で暮らせる環境を残すための広範にわたる活動。詳しくはこちらをご覧ください。