私の森の記憶——それは、保育園から小学4年生まで、宮城県の小さな町に住んでいたときの記憶です。
明るい田んぼや畑から少し山に入ると、そこはひんやりとした違う世界が広がっていたのでした。春になるとワラビを採りに、秋になるとキノコを探しに、山に入りました。
大人と一緒に山に入っても、夢中になってワラビやキノコを探していて、ふと気がつけば、かさかさという自分の足元の音しか聞こえない。
まるで自分がたったひとりぼっちであるかのような、あの心細さ——いまでもよく覚えています。
土色のトカゲ、草の茎にふわふわとついているカマキリの卵、草や土のにおい。雨が降ったあと、森の中では雨のにおいもわかるのでした。さっと日が差し込むと、光と影が緑の舞台でダンスを始めます。夕方になれば、カナカナと鳴く声がいっそう心細さをつのらせる。
あの湿った感じ。木漏れ日の光。やわらかな、落ち着いたにおい。さまざまな、かすかな音や虫の音——そんな森に包まれて、大人の言葉で言えば「畏怖の念」を、私は感じていたのでした。何だかよくわからないものへの恐れとあこがれ、というのでしょうか。
すべてを解析でき、すべてがわかるという、世界はそんな浅いものではないということを、森は私に教えてくれたのでした。
陰と陽すら分けることのできない、さまざまなものをあわせ持ったその姿そのものを、そのものとして受け入れること、すべて割り切れないことの強さ、しなやかさ、そして大事さを、森は私に教えてくれたような気がします。
私が大好きな東山魁夷の絵画に、「緑響く」(1972年)があります。蒼い森の中を白い馬が歩いていく、あの絵です。
私たちの心の中には、あのように深くて蒼い森があるのだと思います。心象風景のようなあの森の中に、ときには入り込んで、腰を下ろす。木のこずえを見ていれば風が見えます。そんなとき、私は膝を抱えて深い森の中にうずくまり、そっと耳を傾けながら、とても満たされた幸せな気持ちになるのです。
耳を傾けてと言えば、森に行ったとき、私がよくやるちっちゃな遊びがあります。昼間でもいいですが、真っ暗な夜に森でやってみたい遊びです。
両手を両耳のうしろに、まるでウサギかゾウの耳のように当ててみます。
そうすると、あら不思議! ふだんは聞こえてこないような音や声が聞こえてくるのです——遠くの川のせせらぎ、草の下の虫の足音、どこかを飛んでいる虫の羽音。
ウサギもゾウも、こうやって大きな耳で、遠くの小さな音まで聞いているんですね。面白いなあ!と、にわかウサギ耳で森を歩いてみるの、とっても楽しいんですよ。
枝廣 淳子
私の森.jp ファウンディング・アドバイザー
環境ジャーナリスト、翻訳家
東京都市大学環境学部教授
1962年京都生まれ。晴遊雨読の子ども時代を送る。2年間の渡米生活をきっかけに29才から英語の勉強をはじめ、同時通訳者・翻訳者・環境ジャーナリストになる。国際会議等での通訳、出版翻訳のほか、心理学をもとにしたビジョンづくりやセルフマネジメント、環境問題に関する講演、執筆などを行う。21世紀環境立国戦略特別部会委員、東京大学人工物工学研究センター客員研究員、環境省「地球温暖化に係る政策支援と普及啓発のための気候変動シナリオに関する総合的研究」アドバイザー。主な著書に『朝2時起きで、なんでもできる!』『地球のなおし方』、翻訳書に『不都合な真実』など多数。