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あの人の森は?
あの人の“森”語り:矢野 智徳さん

あの人の森は?

あの人の“森”語り

「呼吸をしている限りは、まだ間に合う。大地の再生」 第十九回ゲスト 矢野 智徳さん プロフィールはこちら

実家は植物園

僕は、北九州市門司区の植物園で生まれました。昭和25、6年ぐらいに、父が有明海の地下資源「鉱区」を商社に売り、その資金で、日本の自然を一か所に集約して見られるような植物園をつくろうと提案。大学の先生達に協力してもらって、3haほどの植物園「四季の丘」を造ったんです。

起伏に富んだ地形を活かして作られた「四季の丘」 『昭和天皇と四季の花木』より
起伏に富んだ地形を活かして作られた「四季の丘」

『昭和天皇と四季の花木』より

目の前が周防灘で、海に面した植物園の標高が100mぐらい、山ひとつが自然植物園というまさに白砂青松の環境でした。特に花の咲く植物が多く、四季を通じて花が絶えなかった。その管理を一手に引き受けていたのが、僕ら兄弟10人。小学校1年から入門し、学校から帰ると毎日ひたすら草取り、山をおこしたり、木や花を植えたりしていました。山の開墾をしていて、頭に鍬がささって頭蓋骨が破れ、死にかけたこともあります。九死に一生を得た、貴重な命拾いでした。

中学生の頃、友人と「将来、何をやるか」の話になった時、将来は「人と自然の間のことをやる」と言っていました。そのまま、この歳まで来てしまったなと思います。やっぱり植物園が生活の場で、いつも山の自然の中に居たから。

浅く広く全体を見ようと、大学で自然地理学

矢野 智徳(やの とものり)

いろんな紆余曲折があって、植物園は兄貴達がやることになり、21歳で大学に入りました。僕は頭がきれないから、とにかく浅く広くやろうと思い、気象、地形、水脈、動物生態、植物生態など地理を理化学的に読み解く「自然地理学」を専攻しました。自然全体が見られればそれでいいなと。

ところが、講義を受けてると眠たくなる。やる気を持って来たのに眠くなるってどうしてかなと考えたら、「実物」を見ていないからピンと来ないのだとわかって。それで先生に相談して、勉強してから行くのが普通だけれど自分の場合はどうもだめです、「先に見て来ます!」と休学届けを出し、日本全国放浪の旅に出ました。27歳のときです。先生も「矢野につける薬はない」と(笑)。

決死の1年間、放浪の旅で森が教えてくれたこと

とにかく生の日本の自然を見ようと、5月に東京を出発して、まず小笠原へ。それから夏の沖縄へ向けて、静岡、山梨、長野、岐阜、三重、それで四国と、1/25000の地形図に点線で書かれている山道をひたすら一人で、朝も昼も夜もなく歩きました。食料はリュックに玄米だけ、乾物とか野菜とかは現地調達して、もちろん野宿。25kgのリュックをしょって毎日20、30km歩くということだけでも非常にきつい作業だし、すごく危険な目にずっと遭っていましたね。豪雨とか、夜に道に迷ったりとか…。

たまに町に出て驚いたのは、人の表情が穏やかで、危険に対する警戒が全然ないこと。自分がその正反対になっていたんでしょうね。山の中で危険な目にあっても反射的に身体が動く。重たいリュックをしょって足を滑らせても、ぱっと身体で防げる。そのぐらい身体が変わって来たなという気がしました。

矢野 智徳(やの とものり)

沖縄で秋の初めにUターンし、九州からは12段変速に改造したママチャリで東京を目指し、大山の登山道7合目まで一直線にノンストップで登りきったこともありました。11月末に東京に戻って、2か月間アルバイトと冬山トレーニングをし、その後冬装備で三陸、北海道へ。それまでの半年歩いただけで毎日とんでもない危険があったから、初めての冬山は決死の覚悟でした。でも、言ったことは撤回できないし、今さら引き返せない。男意地ですよね。

北海道の冬山で遭難しそうになったことが何度かあります。吹雪のなか、僕が身動きとれず息も途絶える寸前かのような状態のとき、目の前に小鳥が見えた。この吹雪のなかに小鳥が、なんの身の危険を感じないような様子で平然と居るわけですよ。「図体のでかい人間が小鳥にも及ばないんだな、なにが万物の霊長か」と思いましたね。

 

そんな体験を1年間して、僕が教わったのは、命に対してあきらめないということです。人が絶対に助からないと頭で思うような状況でも、生き物としての能力にはまだ余力がある。だから最後の決定は、本当に息の根が止まるまではあきらめず、可能な限り生きること。呼吸をしている限りは、匙を投げてはいけない。生き物の命は、生き物自身が決めるのではなくて、生態系循環(バイオリズムみたいなものか?)の中で命が決まってくるのだと、体感しました。

そして、1年間、日本の生の四季を通して体感できたことは、体力的にも技術的にも感覚的にも自信となり、その後何か苦しいことがあると「あの1年からすればまだ大丈夫」という一つのバロメーターができました。あの1年があったおかげで、この歳まで生の自然と付き合うことができたのだと思います。

水と空気の循環を整えれば、瀕死の自然環境も治せる

矢野 智徳(やの とものり)

日本全国いろんなところを歩きながらいつも、その地域にある自然を大事に保全し、その地域らしい自立した誇りの持てる地域になるためにはどうしたらいいかと考えていました。そして、机上の話だけではない、生の社会と付き合うために、独立した仕事をしようと考え、起業の講習会へ行きました。そこで、講師の先生に「君が明日やれることをやればいいんだよ」と言われ、翌日から造園業をはじめました。

造園ということをずっと続けるなかで、ここ20年来は、現場での風と水と光の動線を軸に人の動線を加えて自然環境を読み、特に「大地の血管である水脈」と「空気」に着目して、全国各地で現地の自然素材を使った環境整備、自然治療をしています。

矢野 智徳(やの とものり)

いま日本全国で起きているのは、大地の呼吸不全です。大地の血管である水脈がコンクリート構造物(砂防ダム、一般ダム、コンクリート護岸、道路、etc.)に塞がれてしまうと、 その中を流れている水と空気がちゃんと循環しなくなり、土壌環境が呼吸不全(空気と水の循環不良)になる。その結果、泥水や洪水やさまざまな問題が起き、生き物たちは体力低下を起こし、木が枯れるなど生態系に多大な異変が起きています。

でも、今ならまだ間に合います。僕が1年間の放浪の旅で教えられたように、瀕死の状態にあっても呼吸をしている限りは、完全に息の根が止まるまでは、なんとかなるんです。シンプルに言えば、水と空気の通り道を回復してやれば大地は再生することができる。特に、通気機能(土の中の空気の動き)を。そして、自然界は「相似形」なので、小さなエリアと大きなエリアの出来事は相対的には同じ。移植ゴテ一つでも、小さなところから治して行けるんです。

これから僕がやりたい事は単純明快。「環境保全型 流域連携社会」です。全国のいろんなところをまわって肌で感じるのは、日本の生態系は流域単位で成り立っているということでした。だから、環境も人間も、上流域・中流域・下流域で連携し合って流域の循環を保全する、環境保全型 産業社会をつくっていけるようにと願っています。

少し堅い話になりました。僕自身は、自分の身体に合ったリュックを背負い、草の根活動で息を繋いで行きます。

2022年4月 矢野さんの「大地の再生」活動がドキュメンタリー映画になりました!

プロフィール

矢野 智徳(やの とものり)

矢野 智徳(やの とものり)

造園技師、NPO法人杜の会 副理事長

1956 年福岡県北九州市生まれ、花木植物園で植物と共に育つ。東京都立大学において理学部地理学科・自然地理を専攻する。全国を放浪して各地の自然環境を見聞し、1984 年、矢野園芸を始める。
1995年の阪神淡路大震災によって被害を受けた庭園の樹勢回復作業を行う中で、大量の瓦礫がゴミにされるのを見て、環境改善施工の新たな手法に取り組む。1999 年、元日本地理学会会長中村和郎教授をはじめ理解者と共に、環境 NPO 杜の会を設立。
現代土木建築工法の裏に潜む環境問題にメスを入れ、その改善予防を提案。在住する山梨県を中心に、足元の住環境から奥山の自然環境の改善までを、作業を通して学ぶ「風土の再生」講座を開設中。

 

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