日本人が森を使って暮らし始めたのは、縄文時代。人々は火を燃やすために木を伐採し、森で採れる山菜やキノコ、あく抜きしたドングリやトチの実などを食料にしていました。また、クリやウルシを栽培して利用していたことが、青森県の三内丸山遺跡から確認されています。森林を刈り開いて火をつけ、その焼け跡に作物の種を蒔く「焼き畑」も縄文時代に始まりました。火入れ後には雑穀や野菜の種のみならず、樹木の苗も植えられていました。
(※1)三内丸山遺跡に復元された、小型の竪穴式住居と掘建柱建物
(※2)縄文時代のゴミ捨て場から発掘された、クルミや木の実
福井県にある鳥浜貝塚からは石斧柄、弓、尖り棒など変化に富んだ木製品が豊富に出土。使われた樹種はスギ、ヤナギ、クリをはじめ30種にものぼり、それぞれの樹種の性格を充分に理解した木材の使い方が既に実践されていたようです。
有史時代に入ると、水田耕作の肥料としても森が使われるようになりました。落ち葉や草木の若芽・若葉を刈り取り、田の中に踏み込んで腐らせる「刈敷」がそれです。風土記には、松脂、榧子(かやのみ)など様々な草木が薬用に使われていたことが記されており、人々の知恵による森活用の幅が広がって来たことがわかります。
その一方で、建築用の木材需要増加や水田開拓のために森林乱伐が進みました。日本書紀によると、天武天皇が、飛鳥川上流の畿内の草木採取と畿内山野の伐木を禁止する勅を発令(676年)。これは、森林伐採禁止令の最古の記録とされています。
平城京、平安京の建設、寺社仏閣の建築ブームなども相まって、800年代までには畿内の森林の相当部分が失われ、600年〜850年は日本の森林が荒廃した第一期とも言われています。
同じ頃、マツの木が定着して来たという記述があります。古代から窯業がさかんだった大阪市の泉北丘陵で見つかった木炭の調査によると、窯に使われた木炭は、それ以前がカシなど広葉樹で占められていたのに対し、6世紀後半からアカマツが増え始め、7世紀後半になるとほとんど全部がアカマツになった。これは、周辺の照葉樹林が荒廃して次第にマツ林に代わったと考えられる。このように、マツ林を森林の劣化・荒廃の指標植物とする見方もあるようです。
農耕社会での利用、建築用材としての利用に加えて、工業での燃料材としての木材需要も次第に増加しました。特に大量の燃料を必要としたのは、製塩業、製鉄業です。
(※5)たたら炭の炭焼き風景
瀬戸内海地方では「製塩」燃料として森の木が大量に使われていました。天日で濃縮した海水を煮詰めて塩をとるために必要な薪。その生産を目的とする山林は「塩山」「塩木山」と呼ばれ、奈良時代に東大寺が560町歩(約555ha)もの広大な塩山を所有していたという記録があります。製塩業の一大中心地、播磨国赤穂ではマツ薪や松葉が多く用いられ、最初は塩田周囲の山林から供給されていたが、やがて内陸へ、瀬戸内の島々へと広がり、塩木山ばかりでなく農民の山まで伐採の手が及びました。
同様に、タタラ製鉄で知られる中国山地でも燃料としての大々的な伐採が行われ、その需要たるや、「タタラを維持するために山林の樹木を20年に一度伐採して使うとすると、一つのタタラが操業し続けるために必要な山林の面積は800町歩(約793ha)」とも言われるほどでした。
古代から中世を通じて、近畿など先進地域を中心に人口増加とともに森林需要は増加し、森は減少・劣化。時代が武家社会になってからも、木材需要は増加の一途を辿りました。武士が思想の拠り所とした禅宗の寺院建造、仏像など木製の彫像芸術、御家人の住居建設、そして農民による水田開発…。さらに戦国時代には、鉄砲・刀剣・槍などの武器製造や砦や城の建築などに大量の木材が使われ、乱伐は続きました。戦乱の炎で焼かれた森林も少なくはないでしょう。
また、戦国大名は、自らの領地において治水・灌漑、農産物の増産、商工業者の結集、鉱山開発、城郭の建設などを進めたため、社会は発展。日本の人口は、15世紀中頃から18世紀初頭までに約3倍にまで急増しました。それに伴い、中心的な資源である木材の需要も増える一方だったのです。
(※6)鎌倉時代の建築物の構造がわかる絵図。奈良・平安期の大規模構造物に比べ、使われる材は細くなっている。
室町時代には、天竜の犬居町秋葉神社でのスギ、ヒノキの植林、奈良県吉野川上郡でスギの植林が開始されました。このあたりが本格的な人工造林の最も古い記録とされています。また、1550年頃から山林の荒廃・洪水の害を防止するために植林が奨励され、安土桃山時代には、武蔵国高麗郡で数万本の苗を植え、かつ数十町歩の原野を切り開いて木を増殖した史実もあります。このような植林推進の一方で、戦乱後の復興や安土桃山文化の絢爛たる建築物の建造などに森林資源が使い尽くされました。
江戸時代に入っても森林破壊は留まることなく、1710年までには本州、四国、九州、北海道南部の森林のうち当時の技術で伐採出来るものの大半は消失したとされています。森林資源の過剰利用により、日本列島の各地に「禿げ山」が生じ、木材供給の逼迫のみならず河川氾濫や台風被害などの災厄をもたらしました。
(※7)吉野川流域の伝統的な育林作業を記述した明治期の絵図。これは植林の様子。
(※8)1626年に描かれた飛鳥川の絵図。図上方の山地はわずかな樹木が見えるだけで、他は山肌そのものとなっている。
禿げ山は度重なる洪水の原因ともなり、江戸時代になると幕府と諸藩は河川の付け替えなどの治水事業と森林の保全に乗り出しました。森林の保全は、禁伐林などを指定する保護林政策と伐採禁止、植栽、土砂留工事などを組み合わせて行われ、とりわけ保護林政策が厳しくなって行きました。
江戸時代の森林は、藩有林、村持山、社寺・豪族などの私有林に大別され、原則、森林の管理は藩に任されていました。古代より、「林野公私共利」(大宝律令)の原則のもと農民は里山から落葉落枝、灌木、下草などを採取する権利があり、その権利は中世を経て徐々に厳しくなりましたが、江戸時代に至っては「村持山」を入会の制度にしたがって利用するだけ、に制限されました。
江戸幕府は代官所に村々での植樹・造林を命じ、また、1661年、幕府と諸藩は林産資源保続のため「御林」(下草から枯れ枝まで採集を禁じた直轄林)を設けました。*「留山制度」ともいい、それは「木一本、首ひとつ」というほど、厳しい制度だったそうです。
一方、17世紀後半以降、海岸を有する多くの藩でいっせいに「海岸林」の造成が行われました。その理由は、江戸時代初頭の急激な国土開発による山地・森林荒廃の影響として、海岸で飛砂害が激化したことへの対策。河川上流の森林が劣化したことにより、流出した大量の土砂が沿岸流によって各地の砂浜海岸に到達し、それによって飛砂が発生したとされています。
(※9)岩手県陸前高田市にあった「高田松原」。江戸時代の1667年(寛文7年)、高田の豪商・菅野杢之助によって植栽され、仙台藩と住民の協力によって6200本のクロマツが植えられた。享保年間(1716-1736年)にも増林が行われ、以来、クロマツとアカマツからなる計7万本もの松林は、景勝地として日本百景にも選ばれた。
2011年3月の東日本大震災の大津波に耐えたのは7万本中、1本だけ。「奇跡の一本松」として知られる。
海岸林造成では、各藩とも試行錯誤の結果として、塩害に強く貧栄養な立地条件でも生存できるクロマツ林を成林させました。「白砂清松」と、日本人にとって見慣れたマツ林の起源は、このあたりにあるようです。
江戸幕府の厳しい伐採・流通規制、森林再生促進など森林保護政策の結果として、日本列島の森林資源は回復に転じました。荒廃した日本の森がなんとか 破滅せずに存続したのは、雨の多い湿潤な気候、人が立ち入れない急峻な奥山や聖域としての森(鎮守の杜など)があったなどの理由もありますが、江戸幕府による積極的な植林事業に負うところが大きいようです。人口100万人の江戸の街には、武家屋敷の周囲を囲む屋敷林、寺社が所有する森が広がり、江戸市域全体の緑被地率は42.9%と世界でもまれに見る緑豊かな都市だったとされています。
天下泰平の時代が終わり明治維新を迎えると、政治的混乱の中、至るところで官林の盗伐や民林の乱伐が行われ、再び里山の森林が荒廃へ向かいました。また、近代産業の発展により燃料としての薪炭、開発にともなう建築材などの需要は増える一方。森林の伐採は進み、明治中期は日本で過去もっとも山地・森林が荒廃していたとの推定もあるほどです。
このような状況下で明治政府は、1897年、保安林制度と営林監督制度を二本柱とする「森林法」を制定。禿げ山に対する山腹工事、植栽も各地で展開され、こうした治山事業を柱とする国土保全、また、増大する木材需要への対応として林業強化政策が進められました。
その後、社会の安定とともに山林保護規制が課せられ、国や民間による造林も盛んに行われるようになりました。1929年には造林推奨規則が公布され、初めて私有林まで補助対象を拡大するといった動きもありました。
(※10)東京多摩川の水源地、笠取山荒廃の様子(1922年)
ところが、1941年に太平洋戦争が始まると、大量の木材や木炭が必要となり、平地林は造船・建築・杭木・薪炭用材としてことごとく伐採され、奥山 の国有林からも軍需造船用材その他に用材として多くの大木が伐られました。最終的には、風致林、社寺林、防風林、そして幼齢林まで伐採。全国各地の山が禿げ山と化したそうです。
終戦後、全国各地でそれまでなかったような大水害が発生し、これらを阻止すべく荒廃林地への植林が国家再建の重要課題に。そして、1950年、緑化運動推進母体として「国土緑化推進委員会」結成。森林資源を造成し、国土の保全と水源かん養を図り、生活環境の緑化が推進されました。
昭和20年〜30年代には戦後の復興等のため木材需要が急増し、政府は、広葉樹からなる天然林の伐採跡地などを針葉樹中心の人工林に置き換える「拡大造林政策」を実施。伐採跡地への造林のみならず、里山の雑木林や奥山の急峻な天然林までが伐採され、代わりにスギやヒノキなど成長が早い針葉樹の人工林に置き換えられました。当時は、建築用材となるスギやヒノキの経済価値は高く、需要増加に伴い価格は急騰し、一大造林ブームとなりました。
(※11)当時の植林ブームがうかがえる、野々市山(石川県)での植林の様子(昭和32年撮影)
ところが、その後外国産の木材輸入が自由化され、価格の高い国産材よりも外材の需要が高くなりました。と同時に、家庭用燃料が薪炭から化石燃料へと置き換わり、日本の森林資源は、建材としても燃料としても価値を失い、林業は衰退。利用されずに放置された人工林は、必要な間伐などの手入れが行われないために森としての健全性が失われ、荒廃してしまいました。
生活圏としての里山においては、使うぶんだけ木を伐り森の手入れをしながら共生してきた日本人。その一方では、建築需要や戦乱などにより天然更新が間に合わないスピードで急峻な奥山までを皆伐し、禿げ山にしてしまってから、植林して人工林にする。そんな乱伐と人工造林を繰り返して来た歴史があります。
そして、現在の日本の森は、木の使い過ぎによる危機ではなく、木を使わなくなったことによる歴史上初めての危機を迎えているのです。この危機を乗り越えるべく、木材の需要を増やすための対策、荒廃した森林を再生させる様々な取り組みなどが、官民をあげて全国的に進められています。
参考
『井川山林 昭和30年代 伐採・搬出の記録』 資料提供:特種東海製紙(株)
※昭和30年代の大規模伐採の様子がわかる貴重なドキュメント・フィルムです。
続きは分割してYouTubeにあげています。
(2)伐採・植林
(3)台風・てっぽうの準備
(4)てっぽう・エンディング
(※1),(※2):三内丸山遺跡 | 復活!やまがたの四季と暮らし |
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(※3):法隆寺 | Creative Commons. Some Rights Reserved. Photo by 663highland |
(※4):平安京地図 | 元気広場 |
(※5):たたら関連 (3枚) | 島根県安来市 和鋼博物館 |
(※6):鎌倉期の建築 | 『松崎天神縁起絵巻巻6』 (山口県防府天満宮所蔵) |
(※7):吉野の育林 | 『吉野林業全書』 森庄一郎著 「明治農書全集」第13巻 農山漁村文化協会 |
(※8):飛鳥の風景 | 『西国三十三所名所図会 〈版本地誌大系2〉』 暁鐘成著 (臨川書店) |
(※9):高田松原 | 三陸復興国立公園 浄土ヶ浜ビジターセンター |
(※10):笠取山荒廃 | 『水道水源林百年史』 (東京都水道局水源管理事務所発行) |
(※11):植林の様子 | 石川県野々市町ホームページ |
(2013.7 更新 ※中世からの人口増加と産業用途による森林減少についてを追加)